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自己紹介

こんにちは、あこです。

会社員の皆さん、今の会社、仕事は好きですか?
やりがいを感じていますか?そこに居てまだ成長できそうですか?

私は今の会社、仕事、好きです。
今の所、このまま定年まで働くつもりです。

でも正直、夢中で必死だった20-30代の頃ほどやりがいや情熱
自分の成長は感じません。
40代管理職。部下が増え、業務はマネジメントと会議中心。

前より高揚感がない、でも会社と仕事は嫌いじゃない。

みなさんはどうですか?

「このまま安全パイで、淡々とサラリーマン生活を続ける方が賢い!」
「老後のために定年まで我慢しよう」

正直私も半分賛成です。
ですが、世の中には会社員の安心感と給料を保ちながら、やりがいや影響力そして収入も
増やせるもっと賢い方法があります。

私はその道を選択した、欲ばりなアラフォー会社員なのです!

基本情報

名前:あこ
年齢:40歳超えている側のアラフォー
家族:子ども2人と夫
仕事:上場企業管理職+副業
住まい:都内在住で長崎出身

好きなのにワクワクしない仕事

私が働いている会社は、業界内で「新卒が就職したい企業1位」になる人気企業で
社員6000人以上の大企業。福利厚生も万全◎、給料も手当も手厚く
さらに働いている仲間も良い人ばかりときた、辞めるにはもったいないホワイト企業。

勤務部署も希望通りの花形部署、広告宣伝部。

35歳ごろまでは、やりがいも人気もある部署で働けて、仕事で大好きな海外にも行けるなんて、私ってめっちゃラッキー!、と思っていました。

会社帰りまっすぐ帰るなんて選択肢はなくて、毎晩同僚とお酒を飲みながら
「こうしたらもっと良くなる!」と語ってグチり熱く話して…終電無くなる〜!と
慌てて帰り、起きたらまた会社に行く充実した日々。

出世欲もあり、同期の中でもいち早く部長になるぞー!女でも部長になれることを証明してやる、と鼻息荒く働いていました。
面白くて、休み返上でもまったく苦じゃなかったんです。

そしてある時、これ以上ないやりがいと成果、社内評価を得て仕事人生の絶頂期を
迎えることになります!

が、文字通りそこが絶頂となり、同時に燃え尽きることに…

その後のどんな仕事もその時ほど、ワクワクしなくなってしまったのです。

おまけに評価が上がり昇進できた結果、給与は微増するも、出席する会議は爆増。
会議のための会議、会議の会議のための資料作りに時間を取られ、物事がなかなか進まない停滞感が募っていきました。

そして第一子出産後、「もう出世ラインから外れたな」と悟った時から、
いかに省エネルギーで穏便に日々の仕事をを終わらせ、定年まで無事故無違反で過ごしていこうか、と考えるようになっていました。

余計なチャレンジはせず、生計のために粛々と65歳まで乗り切ろう、と。
いい会社だし、目立たず適度に頑張ってしがみついて行こう、と。

こんな思考になっていた2020年、第二子の妊娠と同時にコロナを経験し
そこで私は目が覚めました!自分がいかにヤバい思考になっていたのか気づいたのです。

そしてこのままこの働き方を続けるイメージをした時
この先のサラリーマン人生が大体予想ができてしまったこと
さらにその予想が全然面白くなさそうなことにゾッとして震えました。

一言で言うと、残りの人生つまんなそーーーーー!
と。

こう考えるようになったきっかけは、前述のコロナと出産が大きいのですが、もう一つ
その時点で私の長年のコンプレックスが解消されている実感があったことも
後押しとなりました。

そして、ここからの第2の人生、自分でもう一度面白くしよう!と動き出したのです。
その経緯をこれからお話しします。ちょっと長いですがお付き合いください。

幼少期〜高校生

私は父は医者、母は元国際線CAという、昭和の長崎ではレアで
今で言うところのハイスペックな両親の元に生まれ育ちました。

昭和の地方の田舎では、プライバシーなんて言葉はないので、ご近所さんはもちろん
学校でも「○○さんちの娘」「お母さんがスッチーだった」と言われる環境でした。

優しくて、ステータスの高い両親は私の自慢で
「○○さんちの娘」は自分の肩書きのようなもので、私も誇りを感じていました。

ただ、高校生になったあたりから段々とその両親と自分自身のギャップがコンプレックスに変わっていったのです。

私は高校受験に成功し、県下最難関の高校に合格。

親は合格を大喜びしてくれましたが、親戚内では私のことより、医大や全国区の難関高校に受かったいとこの話題が持ちきりで、そのせいで逆に

「私は親が自慢できる程でもない、この程度で申し訳ないな」
という思いが生まれるようになりました。

さらに、入学して他の優秀な生徒と比べると、到底医者になれる成績でもなく
自分がごく平凡なことにも気がついてしまったのです。

医者とスッチーの娘のくせに、大したことない自分
私にとって親は自慢だけど、親にとっては私は自慢の娘なのかな…

優しい両親が、医者になってほしい、と一言も言わないのは
「私じゃ無理って分かっているからなんだろうな」と心の片隅で思っていました。

親の栄光あっての自分、そんなモヤモヤを片隅に抱えながら高校を卒業しました。

大学生

世は当時就職氷河期のまっただ中。

長崎の田舎にいたらますます仕事なんてないだろうな〜、という単純な考えで
高校卒業とともに上京し、大学生活自体はのびのびと暮らしていました。

が、就職氷河期と言われて早7年目に入っているのにも関わらず、変わらず先輩たちが就活で苦戦しているのを見ていて、凡人成績の自分には明るい将来が来ると思えませんでした。

自分が卒業する頃には氷河期も終わってるはず!という考えは甘く、ますます厳しくなるばかり。
医者にはなれないけど母には近づけるかも、と希望していた航空業界は採用なし。
本好きな父の影響で興味を持った出版系は狭き門&私レベルでは不合格。

最終的に、当時は就活するまでは聞いたこともなかったアパレルにやっと内定をもらえて、選択の余地なくそこに入社。

この時も両親に対して、
東京に出させてもらって、4年間授業料、仕送りしてもらった割にこんな結果で申し訳ないな…という気持ちでいっぱいで、自分の将来のことより先に、親の内心を案じて落ち込んでいました。

社会人

受かった数少ない会社で、給料が多少いい、と言う理由で選んだ会社。
会社は第一志望でもないし、名前すら聞いたことのないアパレルでした。

ほとんどの新卒が店舗配属になる中、私は希望通り本社勤務の広告宣伝部に配属になった
こともあり、気持ちを切り替えて社会人がスタート!

社会人になると学生時代のように立ち止まってモヤモヤ考えている暇もないので、
毎日の仕事を覚えるのに必死ながらも、やりがいを感じる日々でした。

そして入社6年目の29歳で、新規ブランドの立ち上げプロジェクトメンバーになった時に
転機を迎えます。

メンバー6人でブランドの名前、ターゲット、商品の方向性、プロモーションから
考えるという0からものを生み出すプロジェクトでした。

13年前の当時、今のようにインスタやYoutubeが活用できたらどんなに便利だったか
と思うのですが、予算が少ない中で地道なリサーチを実施。

朝昼晩、休日でも街を歩く時は頭の中は仕事モード。
寝てる時も何かひらめいたら飛び起きてメモする日々でした。
それが全然苦ではなく、
むしろメモったことを提案して実行できるかも!というワクワクで
面白くてしょうがない状態。

そして、綿密なプロモーションもはまり、立ち上げ1年後にメディアアンケートで
世代の憧れブランドNO.1に選ばれる成功をおさめました。

ブランドが立ち上がった時は、「そんなブランド聞いたことないわ〜」と言われて
ファッション雑誌に売り込みに行っても門前払い。

それが、1年後には「ぜひ掲載させてほしい!」と言われる状況に変化した経験は、
幼少期に「○○さんちの娘」と言われていた私の人生において、
初めて自分で獲得した
成功体験でし
た。

この5年後の34歳の時、2度目の成功体験を迎えます。

この頃には入社した時には大して有名じゃなかった会社も、業界でトップ5に入る規模になっていたので、プロジェクトも責任も大きくなりさらに仕事に打ち込んでいました。

当時担当していた2つのブランドで同時にプロモーションが当たり、売上に大きく貢献できたのです。そして同時進行は体力との勝負で朝から晩まで仕事づくし!

そんな無我夢中で疾走した1年間が終わった時、私はこれまでに感じたことのない達成感で…燃え尽きました!

さらに、この気持ちに拍車をかけた出来事があったのです。

親戚一同が会した法事の場で、いとこたちに
「あこちゃんあのブランドやってるの!すごい〜っ」
「その会社で働いてるのかっこいい!」
って言われたのよ!、と両親が伝えてきた時の嬉しそうで誇らしそうな顔を見て
高校時代から抱えていたコンプレックスから完全に解放されました。

そして同時に、
仕事にもうこれ以上の達成感を求める理由が見出せなくなっていきました。

結婚〜出産:出世コースを諦める

仕事で燃え尽きる34歳以前の、31歳で結婚してはいましたが、ほぼ仕事メイン。

夫もテレビ局勤務で激務なので、お互いに競い合うように仕事をしていました。
海外出張も多く、それぞれ日本にいなかったことを帰国後に知ることもある働きマン夫婦。

なので、結婚は私にとってさほど人生の転換期ではなかったのですが(夫には申しないけど事実!)、37歳での妊娠出産は私のそれまでの仕事観と人生観が変わる出来事でした。

この世に自分のこと、仕事よりも優先しなければならない、したい人がいる
今までの人生で抱いたことのない初めての感情を手にしてしまったのです。

妊娠した時感じたのは、嬉しさと同時に、これまでのキャリアが無くなるかも
出世が阻まれるかも、という焦りでした。

それを理由に出産から半年後に会社に復帰し、出産前と変わらない仕事量をこなす日々に
戻りましたが、多くのワーママがぶつかる壁に私も例外なくぶち当たることに。

育児との両立の難しさと、先の成功体験で燃え尽きてやりがい迷子になっていたことも
理由に、次第に「出世なんかより安定が1番!省エネで穏便に会社員生活を送ろう」
という思考に変化しました。

コロナ期の出産で目が覚める

モヤモヤした気持ちで働いていた1人目の出産から3年後、40歳で2人目の子どもを妊娠。

コロナ真っ只中の妊娠は、もしコロナになったらどうなるんだろう…胎児への影響は?
と常に未知の不安にかられている状況。
なのに検診は付き添いNG、出産も立ち会いNG、退院まで面会もナシ。

1番に子供を見せたかった両親は、父が医療従事者のためより厳しく行動制限をしていたのでいつになったら会えるのか、先行きが見えず孤独で悶々と過ごしました。

この死を身近に感じるコロナ期の中で、新しい命を産み育てた経験により、それまでの固定概念は完全に覆りました。

いつ何が起こるのかわからない
いつ死ぬかもわからない
ならば残された人生、時間をより大切に、よくばりに生きないと!

と目が覚めたのです。

 1日の大半を費やす仕事を、生計のため淡々と乗り切って、終業時間が来るのを待とうなどとヤバい思考になっていた自分に呆れ、時間を無駄にしたことを後悔しました。

そして、人生を豊かにするために成長ややりがいを感じられ、収入にもつながるスキルを
手に入れる決心をし、副業をすることにしたのです。

なんで副業なの?今の会社で挑戦すればいいのに、なんて言わないでくださいよ。
会社という大きな組織の中で、自分が望む成長やチャレンジができる環境って簡単に巡ってきませんよね。ましてやアラフォー時短女性の戦力外社員のためにそんな取り計らい、期待できません。

もし運よくそんな環境があったとして、会社員では頑張りほどに給料が増えることは望めませんし。

ならば待っている時間はない、自分が動くしかない!
こんな焦りが私を突き動かしました。

現在、副業をスタートして1年4ヶ月目、目標の月30万円を達成し、多い時で月50万円を超えるようになりました。会社員の月給45万円と合わせると、月収は平均80万円程になります。

一体本業と副業、どう両立しているの?
何をやってどれくらいで収入を得られたの?


など、このWebサイトでは会社員の安定した収入を保ちながら副業を成功させた
私の道のりを全てお伝えしていきます。

それが今の働き方、将来に不安を感じているのに何をすればいいかわからない、と悩んでいる方の背中を押して、人生を切り開くヒントになると嬉しいです。

最後まで読んでいただきありがとうございました!